デザイン住宅について語ること。デザイン住宅を造ることは、「自由」について語っているのだという事を、いったいどれほどの人が正確に分かっているだろうか?
確かに矛盾に満ち溢れている。
住宅をつくることは大変だ。
一夫一婦制に身をゆだね、身体を担保にして30年の住宅ローンを組み、固定資産税や消費税を払い、居場所を正確にニホン国政府に登録する。そして「正しいニホン国民」になる。結果的にGDPに貢献する。「自由」が様々な制度からの自我の解放だとすれば、家造りはむしろ「自由」を制限することにならないのか? 疑問に感じるのも当然なのである。
たとえば、こんな考え方は如何だろうか?
家についての考え方を変えてみる。定住の場所、一生の買い物、終の棲家など、重々しい表現はやめて自分を旅人や漂泊民になぞらえて考えて見る。固定資産税は国家に対する土地の賃貸料。「所有」を相対化するのである。
しかも、しっかりデザインされた中古住宅が流通する時代が、これから始まるはずだ。価値についての考え方が変わるはず。住んでもいいし売却してもいい資産としての家になる。気持ちの問題として、定住しなくていいのです。
家は、自分の有様の表現である。他人の目を気にして、家作りをするべからず。そんなもったいないことすると、バチが当たる。玄関について、食卓について、風呂について。自由に考えてください。真剣に考えると単純な概念をそのまま内面化して、「こんなもん」と思い込んでいることが多すぎる。機能を満たしながらも自分なりの新しい形が必ずあるはずなのである。
安直な概念=借り物の言葉を生活に当てはめるのではなく、自分なりのカタチが浮かび上がってくるまでゆっくり待つ。そのことが、永い間愛着に持続する家をつくりあげる。安直な概念的な家は、すぐに飽きてしまうのである。寝るだけの場所。車で言えば単なる移動の手段、カローラである。
「進歩的文化人」とも決別しよう。さようなら。
西洋に近いことが自由に近いと自己満足できる時代は終わった。
いまや、西洋風の家にすることと、自由の獲得にはなんらの有効な相関関係もないのである。地中海風や南欧風はもう要らないでしょう。
家が一番、自分らしさを表現できる場所であり、そのプロセスが一番自分らしさを認識するきっかけになる。
現実的に考えて、様々な制度が身体にまとわりついてくることを、一発で拒否することはやめたほうがいい。ある瞬間にすべての拘束から解放されること、暴動やクーデターなど、もはや有り得ない。ゆっくりゆっくり考えましょう。
制度や概念から自由になること。上手な二重生活。あるいは成熟。この境地に至るチャンスが、自分らしい家作りのプロセスには満ち溢れているのである。
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