(結果的アナーキズム論 vol.2)
大阪の二つの公園から、ホームレスの人たちを大阪市が撤去する有様をTVで見た。一昔前の釜ヶ崎暴動を彷彿とさせる、すさまじい争い。
そういえば、その2〜3日前、ひとつの裁判が結審した。ホームレス裁判。別の公園で棲んでいるホームレスが居住権を認めるよう裁判を起こし勝訴したものである。
その裁判結果にびっくりした行政が、危機感を感じて間髪入れずに強制執行に踏み切ったというのが、今回の強制撤去劇であると思われる。そもそもこの裁判の判決が面白い。「居住の場所がはっきりしていて、テントの基礎も比較的しっかり作ってあるから、住居として認めます。」という内容。一見ラジカルに思えるが、実はその逆だと私は思っている。裁判を起こしたホームレスのおじさんは、「勝訴!」と喜んでいた。そもそもこの人たちは、何にも束縛されない人生を選んだのではないのか?
国家にとっては、その人の風体がいかにいかがわしくても、定住が証明されることを促進する方向に動く。定住させることこそが、重要なのである。
一方、漂流民や、何にも帰属しない自由民は、逆に目の敵にされる。なぜか? 国家にとって人を定住させて登録し、管理し、徴税する。この方向性が本筋だからである。住民管理=徴税システムが国家を国家たらしめる。歴史の教科書でいうところの中世、近世、近代、現代。その境目はどこにあるのか?わたしは人を定住させて税を徴収し管理するシステムの完成度によって、その名称が変わるのだと思っている。
さすれば、今回の撤去劇。中嶋みゆきの曲がBGMで聞こえてきそうな悲壮な光景であるが、そもそもこのおじさんたちは、何を求めて戦っているのか?
私には、「俺たちを国民にしてくれ!俺たちを管理してくれ!」と言っているように見える。複雑な心境なのである。
国民でありながら、国民でない瞬間をGETする。そのことに自由があり、国民でない者同士の自由な交流の快楽がある。私が興味を持ち、獲得したいのはこの観点である。世の中の論理、芸能の論理はこのような観点から、鮮明に見えてくる気がするのである。
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