「感動」という言葉に少し疑いを持ってしまった。
TVを何気なく見ていると、グルメレポートのようなものが最近とても多いと気がつきます。経済が沈滞している、街を元気にする。そんな趣向でありますと暗に言われ続けながら、ダラダラ観る。レポーターは口々に「感動した!」と言い続けるわけです。
ちなみに申し上げると、私は若いころから「感動」しやすい体質で、自分ではそれを自分の長所とさえ思って生きてきました。
案外えらいなーと思うのは、お店の人。そんなことは、毎日のことで、毎日のことだから大切なので、いまさらテレビで騒がれてもねー、ということを表情に表わします。案外テレビを相手にしていない。むしろこれには少し感動します。
テレビや広告の世界はいまや、日常の生活シーンさえも非日常にして、「感動した!」と叫びまくる。感動して思わず買っちゃいました。これです。
観ている私は、もうそんなにうまいものを探さなくてもいいし、高いものを買わなくてもいい。必要なものをこころとからだが変にならないように、必要なだけ「いただく」。その調和を追求したい気持ちになってしまうのでした。
しかし、よく考えてみると私も、衝動買いを正当化する言葉として、頭の中では「感動」を使っているかもしれません。感動して思わず買っちゃいました。買っちゃいたいから感動してしまいます。感動を探してうろうろする。情報を集めまくる。
若い頃、いろんな本を読んで感動した。自分が何かしなければ気がすまないような、急き立てられるような感動もありました。しかし、気がつくと「モノ」に感動することばかりになっているかもしれません。
「感動」とはそもそも何なのか?人間は感動をきっかけにしか行動できないものか?これは深遠な問題です。「ニヒリズム」というものを回避して生きていこうと思っていたので、余計に難しいのです。私は愚かにも、「恋愛」も感動から生まれると思っておりました。
いま、大切なことは、「感動」を便利な記号にするのではなく、「感動」の定義をもう一度することかも知れません。ゆっくりとした呼吸法を取り戻したい、といったイメージでしょうか。
たとえば宮沢賢治は雪やみぞれの美しさに感動しつつ、それを物理現象としてとらえる視点を一方で維持していました。一人の人間の中で、その両方の観点が調和すること。宮沢賢治のように、自分本意ではない世界観のようなものが私たちにないものでしょうか?
それにしても、少しカンドウということばに「 」をつけてみたいと思っています。
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