私は毎年、大晦日に伊勢神宮に参拝している。毎年行くことによってわかることがあるからである。それは「経年変化」ということの本質についてである。
伊勢神宮の内宮の本殿は、20年ごとに場所を移して建て替えが行われる日本で唯一の神社である。その慣わしを「式年遷宮」と呼ぶ。次回の式年遷宮は平成25年である。私は12年ほど連続して大晦日参拝を続けているので、遷宮後3年経過した本殿を見続けていることになる。
大鳥居をくぐると清流なる五十鈴川があり、木製の太鼓橋がかかる。そこを渡って広い砂利敷きの参道をすすむと、再び鳥居が現れる。手洗い所で手を清め、一礼して鳥居をくぐると社務所。その先は鬱蒼たる森の中の参道である。
参道の両側は樹齢何百年もの檜の大木が参道に覆いかぶさるように続く。昼でも暗い。天然の大聖堂とでも言うべき大空間の湿度と清清しさ。変な表現だが湿気が清冽なのである。樹木が形成する空間の企画力と物語性。とても人間が作ったものは及ばない圧倒的なパワーとシンプルさ。その中で自分自身の今年一年は、既に限りなく小さなものになっている。
15分ほど歩くと、50段ほどの石段の上にいよいよ本殿がある。上を仰ぎ見ながら石段を登りきると、本殿の手前に屋根つきの大きな門があり、一般の参拝者はそこで二礼二拍手一礼を行う。門の中央には大きな白い布がちょうど暖簾のように垂れ下がっている。風が吹くと布がなびき、ちらりちらりと本殿が見える。絶妙のチラリズム。布の間から垣間見える本殿へは、やはり20度くらいの傾斜で登っていて、我々は常にアゴを上げて上を仰ぎ見るように企画されている。しかしなぜか素直になれる。悔しくない。
本殿は現在15年経過しているが、経年変化をさほど感じない。
屋根の上にならぶ特長のある鰹木もエッジに金色の意匠が施してあり、その輝きはなかなか衰えていない。経年変化に感動するのは、むしろ参拝する門の屋根である。
白木のまま、わざとノンメンテナンスにしてある。最初のころは、白木のシンプルな美しさに心を打たれた。潔い印象であった。15年経過した今では、屋根は一面苔むしてむしろ朽ちている。一年一年、確実に朽ちていく。それはさながら、屋根が山に解けていくようである。
参拝所、および本殿の撮影は一切禁じられているので、写真で正確に経年変化を比較することはできない。盗み撮りしようと思えばできないことはないが、それはしたくない。写真に撮ると、その時間の流れ「経年」を固定化することになってしまうからである。
苔むして朽ちていく屋根をありがたく見ているとき、やはり私自身の今年一年を意識する。同時に私自身の一生の長さをなんとなくイメージする。また同時に悠久の自然の、その悠久であることにあらためて心打たれる。そのとき自意識の塊である私は、かなり素直になっていると思う。
帰りの参道は、とてもさばさばしたいい気持ちである。また来年ここに来たいと思うのである。
自然、あるいは山からエネルギーをもらうとは、このようなことであろう。
それが老若男女、言葉にしなくても、素直に受け入れられるようにしているその企画力と物語。またその徹底的なシンプルさのなんとすばらしいことか。
年の節目をつくって、こんな気持ちになる。やはり一年に一度くらいは居ずまいを正して、ちっぽけな存在になるほうがいい。この儀式は、先祖が我々に残してくれたありがたい知恵であると思っている。
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