「クルマと家」すなわちCAR&HOMEというMOOK本に執筆をして7年目になります。最近このタイトルの意味が、自分の中で大きく変化してきたことに気が付いてしまい、いささか戸惑っています。。スタート当初は、クルマも家も「生活世界」を豊かにするレベルを見極めたいものですね・・・というのがコンセプトというかイメージでありました。それはそれで面白かった。なにしろそのころ、家電やインターホンなど工業デザインとしてあまりにもイケテナイ商品がまだまだ大半で、輸入車がやはり根をつめてデザインしているなと感じられる代表的なものであったから、デザインした住宅と輸入車の相乗効果という観点は、一定の支持を得ました。しかし、考えてみるとなかなかイミシンなタイトルなんですよ、これ。
「ワンオフ」のものと「規格品」。画家が描く絵はワンオフ。しかしそれを複製するテクノロジーが発達して写真、シネマと複製芸術が跋扈しはじめます。モダンという大きな流れがワンオフを流し去っていって、ますます肥大化、全面化していきます。そのことに対するささやかな抵抗としての「家づくり」。そこに僕たちは意味を見出していたし、コンクリート住宅にこだわったのもその観点が根底にあったからなんですが。そして今でもその観点は住宅の世界では立派に意味を持続しております。「ホンモノ」あるいは「コダワリ」という言葉は、まだまだ十分流通しているんですから。でも、そろそろ「コダワリ」という言葉に違和感が生じ始めている自分に気が付いてしまったというか・・・。もっと言うと、だいぶ前から気が付いていたんですけど意地を張り通していたんですが、最近その意地の力:意地力が緩んできたのかもしれません。イージーですよ。もう。
一方で僕たちは、モダンが「生活世界」を豊かにすると信じたコルビジェ先生やバウハウスの「良心?」にたいする感動を、未だにひきずって生きているというのも偽らざるところであります。飢えた大衆が(♪たぁーてぇー、飢えたるものーよ。)モダンの良心とテクノロジー力によって飢えから開放され、生活の美しさや人間存在のすばらしさを日々再発見できるような、住宅や技術のありかた。これ、わりとマジで考えてました。「悪者」らしい奴を見つけると、モダン、あるいはウルトラマンの物語が浮上してきて、小さな声で「粉砕っ!」とつぶやいておった若気のいたりが未だに腹のそこにはあります。相対化(ソータイか?)しなきゃいかんのだろうか?いかんのだろうなー。実際、若い人のあまりのノンポリ感に遭遇すると、正直「粉砕っ」と言いたくなるときもあったりなんかして・・・。よくないことです。
でも、まじめな話、バウハウスやロシアアバンギャルドの真髄って、上記のような「良心」なんだろうと思うし、日本の設計事務所なるものは、多かれ少なかれその延長線上にいるような気がします。1933.バウハウスはヒトラーによって、ロシアアバンギャルドはスターリンに徹底的につぶされます。邪魔にされちゃう。これが私には案外不思議です。モダンや技術が大衆を豊かにする、そのための秀逸な「規格化」。それはファシズム体制にとっても、非常に必要なものだったのですから。またこれが、「良心的」なシステム世界とファシズム(悪夢)の結節点なんだろうなと思います。同時代にはなかなかわからなかったのだろうと。
たとえば、規格品としてのクルマの良し悪しを考える基点として、最近僕たちが主催するCAR&HOMEフォーラムで、好んでフォルクスワーゲン:ビートル・・・戦前の名はKdf(歓喜力行号)の骨格というテーマを取り上げています。ビートルはポルシェ博士がヒトラーに企画書を出して、ヒトラーがこれを採用した。国民車として。すなわちナチス政権化の労働者は皆、このクルマに乗ることを励みに働くのだと。ヒトラーとかナチスとか言うから、天下の悪行のように聞こえますが、よく調べると完璧な経済政策、システムです。しかし国民すべてが夢に見る車なのだからゲシュタポによってkdf(ビートル)は何万キロもの走行テストをやり、鍛えに鍛え抜かれるわけです。ポルシェ博士もまたさる者で、その要求される性能や条件をクリアーしていったわけです。ビートルの骨格や考え方には、案外知られてないのですが実はすごいものがある。規格品の最高峰ともいえるもの。私にはなんらのロマン、あるいは「良心?」なしにこんなものは造れないと思います。でもこれは、ナチスの命で作ったもので、かつバウハウスの延長上にあることだと思うのですよ。微妙な差なのですよ。バウハウスとポルシェは。ヒトラーが裁かれた後の歴史は、ことさらその違いを強調するように構成されていくのですが、むしろ両者の近似点をこそクローズアップすることによって、新たに見えてくるものがあると思うのです。ビートルは2002年にメキシコで生産を停止するまで、世界中で生産され続けました。ポルシェ356から911また、その孫子にいたるまで脈々と、そのボディーの骨格は受け続けているわけです。すごい話だし、不思議な皮肉だと僕らはつくづく思うのです。
僕たちは、ニッポンの規格品、たとえばプレハブ住宅、たとえば白物家電が、美しくないし愛着が持続しない、つまりデザインされてないことによって、規格品として良質でないと思っていました。今でも、そういう風に感じる規格品の方が多いです。だから確かに、その限りにおいては、デザイン住宅という名の一品物住宅には、存在意味があるのです。しかしたとえばビートルのような秀逸な骨格を持った規格品、表面上の肉付けで購買欲をあおる性質(モードと呼ぶか)ではない規格品が登場すると、設計事務所や「デザイン」なるものの意味と位置づけは必然的に変わります。たとえば、ニッポンのトイレ。これすごいですよ。シャワートイレの快感。マドンナがどうしても売ってくれと買いに来たそうです。しかもタンクレス。フォルムもこれ以上ないくらい突き詰められたものを感じます。バウハウスレベルをはるかに超える規格品が、なにげなくニッポンの津々浦々に存在し始めているのです。
5月21日の参議院予算委員会の答弁で、舛添厚労相は、「自民党は、ある意味、政策的には社会民主主義的政党で、我々はナチズム的世界、国家社会主義的世界にだけは足を踏み出さない結束を持っている」というような意味のことを話していました。面白い国会答弁でまさに混迷の時代を象徴していると思って、それこそバウバウなのですが、ナチズムへの結節点を見極めることは、生身の人間には実は非常に難しいかったのだし、ポストモダンの今は、全く違った形でその「結節点」が到来するのではないだろうか?と私は思っています。あるいはすでに、到来しているのかもしれない。
ともあれ、バウハウスレベルが、矛盾した私の考え方の今は座標軸で、その観点でいろいろ考えていこうと思っているわけなんです。
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