今週の月曜日、朝10時。東京世田谷区に大切に設計してきたコンクリート住宅の地鎮祭がめでたく挙行された。感慨無量。いつも思うことであるが、お施主様の安心と期待と心配が入り混じった表情が「謙虚」ということの本質につながる感がある。もちろん、これからの仕事に取り掛かるわれわれ工事人(設計も施工も)も謙虚を改めて実感するのある。工事は案外大自然との闘いなのであります。
祭壇はわずかに4本の竹と、しめ縄だけで作られた最小限住居の中にある。なおさらお客様の態度は謙虚になるのである。
式典が始まる。何度も地鎮祭に列席してわかった。式典は神様への接待を模したものである。まず神官が八百万の神様を呼び、酒の栓をあけ、祝詞を読み上げ、安全といやさかを祈願する。その後、砂山に鎌、鍬、鋤をいれてこれからこんな工事をしますと神様に見せる。「鍬入れ」の儀式が終ると一息ついて、列席者がそれぞれ玉串(榊の枝に飾りをつけたもの)を神様に捧げる(奉てん)。そのときよく言う二礼二拍手一礼をする。
神官が酒の栓を締め、接待が終わり、神様は再び去っていく(昇神の儀)。ここまでが一連の儀式となっている。
意味がわかっていて儀式に参加すると、あたかもこれは能のシンボリズムさながらである。儀式というより寸劇である。しかも観客参加型の寸劇といった方がいいかもしれない。何度出席してもその都度気分新たで、面白いものなのです。
地鎮祭が何度も出席しているわれわれ工事人にとってもいつも新鮮であること。その理由は私たちが「小さきもの」への思いを新たにするからだと考えている。神官は儀式中に何度も「御低頭ください」と参加者に言う。頭を下げるのである。われわれはそのたびに地面をかなり長い時間見つめることになる。
草が生えていて、その合間をアリが歩いている。土の中には微生物やミミズやオケラなどいろんな「小さきもの」が生きている。これから始まる工事で、土を掘り返してこれらの「小さきもの」たちの住処を破壊することになるということに思い至るのである。その業の深さに許しを請うために地鎮祭という儀式がある。神様はこの無数の「小さきもの」たちの代わりなのである。
これは私が職業柄、数多くの地鎮祭に列席して感じている、自己流の地鎮祭解釈であるが案外地鎮祭のみならず、日本人の宗教心についての本質から外れていないと思っている。また、日本にこのような儀式があるということは実にすばらしいことだと思っている。この気持ちを工事人たる我々は、片時も忘れてはいけないのである。
エコロジーを表明することが贖罪ではない。もともと暮らしの中にある人間の業の深さに謙虚に面と向かう瞬間、それを的確にとらえ続ける以外人間の生きる道はない。私たち工事人は、何度もそれに気づかされる実に幸せな「小さきもの」なのである。
最近のコメント