最近ある人から言われたことがずっと頭に残っています。
曰く、
古来日本人は、自然の産物に含まれている「エネルギー/タマシイ」を保存しながら「モノ」に変換する特殊技能を、本来的な意味での「技術」として認知してきた。
と、
たとえば、長年の風雪に耐えて成長した木に含まれているエネルギー/タマシイを、そのまま保存しながら、家の骨組や家具すなわち「モノ」にする。この技能者を大工というのです。
いままで、「精魂を込める」という表現をつかうとき、案外「作る人間個人の精魂(自意識)」を問題にしていた気がします。いわば人間中心主義です。
しかしそのことよりはむしろ、素材自体に敬意をはらい、素材に内在するエネルギーを保存することにこそ、「技術」の尊さの力点があります。これこそ私が最近気がついた観点なんです。
当然、そのタマシイ保存の技能を身につけるのには修行がいるわけです。
現代的に言い換えるならば、やはり木々が風雪に耐えて生きていることに、まずはエネルギー/タマシイを感じること。そして共鳴する。 そのことが、修業の出発点なのかも知れません。エコロジーということばも、その観点なしでは意味がありません。人間中心主義ではだめなのです。
「モノづくり」とか言いながら、案外言い古されてきた感があることですが、ニュアンスの微妙な違いは、まったく逆の意味になってしまいます。
修行の果てに、タマをモノに還元できる技能者にも敬意をはらう。江戸時代ころまでの日本の社会には、まだそのニュアンスが残っていたのかも知れません。上棟式で職人にお酒をふるまい感謝することの中には、明らかにその発想の残り香があります。
住宅をつくる、暮らしを考えるというプロセスの中にも、「タマをモノに変換する」という要素がたくさんあります。このことを意識することで、ずいぶん発想が変わりますね。
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