「AUTO CAR」というイギリスの自動車雑誌の日本版に、住宅とクルマの関係についての連載をしている。その関係もあって自動車雑誌を見ることが多くなった。最近特に感じるのは、スポーツカーの特集記事が飛躍的に多くなっていることである。高級品と廉価版の2極化や、チョイワル世代の引退など、マーケッティング的な理由はいろいろと想像できる。しかしそれ以上にアマノジャクのわたしが感じること、それは合法的なアナキストの増加という、いささか胸騒ぎのするニオイのようなものである。
そもそもスパルタンなスポーツカーは不思議な存在であります。道路交通法をアッサリ破るために造られている商品。その社会的位置づけは、ある意味GUNや覚せい剤に似ている。
しかし、人殺しでないGUNの使用法や、トリップしない覚せい剤が現実的でないので、ニッポンでは両方とも所有自体を禁止されている。もし、チャーハンの調味料としても覚せい剤が有効であれば、覚せい剤はスポーツカーと同じく限定的な合法商品になるのかもしれない。スポーツカーには「法定速度でゆっくり走ります。」といういいわけがある。蕎麦屋の出前に使ってもいい。かくしてスポーツカーは公然と販売されている。
また、自動車の所有者には様々な税金を課すことができる。国家にとっては徴税が最大の関心事なのである。あまり報道されないことではあるが、かの堀江氏は、どの程度納税していたのであろうか?節税をやりすぎる人に、国家はいい顔をしないからである。
テレビのワイドショーで、したり顔の評論家が「捕まらなければ良い。という考え方が諸悪の根源です。」みたいなことを連日しゃべっている。しかし私はそうとばかりも思わない。人間の行為や発想、衝動はあくまで自由である。行為の自由が先であって、法律は後付けで適用されるのである。
行為に“ヤマシイトコロ”があるかないか?これは重要。何をやっても“お天道様”は見ているかもしれないからである。“ヤマシイトコロ”は、人のよって違う。宗教や科学的思考への造詣によっても変化する。私自身はなんでもかんでも“ヤマシイ”という理由で引っ込み思案になる生き方は、あまり好きではない。“ヤマシイ”を積極的に内面化して、言い訳にする生き方はイヤだと思っている。かつて大杉栄は「奴隷根性論」を書いた。信義に基づく”ヤマシサ“の開放。それを「自由」という。
もし、評論行為が成立するとすれば、“ヤマシイトコロ”の在り様という論点が不可欠であると思っている。自由について論じていきたいからだ!「国家的観点からみた法律論と愚鈍なる民衆の統治方法」という論点には、何の興味もない。
よく考えてみると、私が住宅を造りながら職人や施主と話していることは、結果的なアナキズムなのかもしれない。と最近思うのである。
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