構造計算偽造事件を毎日観ている。私たち建築業界の人間にとっては日常となっている事柄ではあるが、これだけ毎日、何百回とテレビで連呼されると、この作業や、確認申請という許可手続きが、少しでも一般に馴染みのあるものになるかも知れない。このことだけは、評価ができると思っています。
ヒューザーというデベロッパーがつくったマンションが、危険物であるということになって大騒ぎになっています。今すぐ退去しなければ、命があぶないっ!見たいな話になっている。しかし、そもそも構造計算をして、耐震強度を数値化した住宅が、いかほどあるというのでしょうか?木造の2F建ては、確認申請に構造計算を必要としません。大工さんが一人でやっている工務店に、構造計算は不可能だからです。そしてだから危険なものかというと、私は一概にそうは思いません。
構造計算という言葉が、独り歩きすることは、結果的には本質をはずれた規制の強化につながっていくと思います。大工が経験上、身体感覚で安全を確保することを否定することにつながっていく。あるいは、数値化さえしていれば、品質が良いという単純なビジネスにつながっていく。「高気密、高断熱」や「バリアフリー」など、言葉だけが一人歩きして、内容が均一化し空虚になっていく事柄の例えは、いくつも挙げることができるのです。
もちろん、非木造の住宅、鉄骨や鉄筋コンクリートでつくる住宅にはビルやマンションを計画するのと同じ基準が課せられ、検査基準も同様の厳しさを要求されます。LDKが造っている家は100%、構造計算を行っていますが、それはアタリマエのこと。そんなことをセールストークにしたくはありません。安全性とコスト、デザイン性と居住性など、いろんな矛盾を連立方程式で解いていくことに、建築のほんとうの醍醐味と難しさがあるからです。
今回の姉歯さんのように、自覚して偽造するということは、悲しいこと。建築業界はいま、労多くして実入りの少ない、非常につらい業種です。利益のために偽造をするような人格では、とても建築業界のつらさは乗り切っていけません。建築に携わる人たちは、みんなそれが分かっていると思います。恥ずかしいことです。
それにしても、伊勢神宮の内宮の本殿、日本人の精神性を象徴するその粗末な架構。20年ごとに壊して作り直す、「式年遷宮」の思想と、構造計算するべき論との整合性をどのように考えたら良い物でしょうか?予定調和でない人生を、精一杯生きること。そのステージとして住宅の本旨はあるのかもしれません。住まい手が住宅について深く考え、眼力を養うことしか、解決の糸口はないのかもしれません。
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